〔関連書籍〕スパイスが変えた世界史―コショウ・アジア・海をめぐる物語
2章 スパイスを支配するものが支配する p60-89
- スパイス交易を牛耳っていたヴェネツィア
ヴェネツィアのすべては通商と海上輸送をめざし、いっさいはこのふたつの目的を中心に回転した。都市の権力は、ルートをつうじてルートのうえに築かれ、交易と闘争によって構築された。軍隊の冒険、海外支店と植民地、同盟関係、多くの場合にキリスト教徒の連帯感を軽視する政治的選択などは、どれもつねに、同じ法則にしたがった。それは海路のために陸地を活用し、交易のために政治を役だて、権力のために交易を利用するという法則である。p61
1503年以後、リスボンでコショウは、ヴェネツィアの5分の1の値段で販売されるようになった。これはまさしくパニック状態だった。この状態はまもなく、たぶん破産状態に変わるだろう。p87
3章 発見の発見 p91-120
- どうして中国ではなかったのか
鄭和の大遠征をやりとげた明に、なぜ地理上の発見の成果がなかったのか。
鄭和が1433年に、最後の大遠征からもどったとき、中国はもはや、もとの中国ではなかった。永楽帝が亡くなった1424年に、陸路が閉鎖されており、皇帝の後継者たちは、ただちに孤立主義政策を再開した。巨大なジャンクの使用はうち切られ、大遠征の記録は散逸して、港と造船所は閉鎖された。15世紀末になると、海上交易は重罪となり、二本マスト以上のジャンクの建造は死罪に値した。p96
- どうしてイスラムではなかったのか
西洋と東洋の中間で交易を牛耳っていたアラブ人に、なぜ成果がなかったのか。 - どうしてポルトガル人だったのか
ポルトガル(エンリケ)が成功し、壮挙ともいえる成果が出たのはなぜか。
それ以前に計画されて、わずかのあいだしかつづかなかった試みと違って、航海王子エンリケが予告したような世界探検は、体系的に組み立てられていた。ヴァイキングはアメリカ大陸にたまたま遭遇して、そのあと、そのことを忘れてしまった。それと違ってポルトガル人は、世界を偶然に発見したのではなかった。p105
探検家 ヌーノ・トリスタン(Nuno Tristão) 3/3/3
悲惨だったタンジールの軍事遠征と、ポルトガルの摂政時代にからむ政治的混乱期に、遠征は一時中断されたが、そのあと探検が再開された。1441年になって、アンタン・ゴンザルヴェスとヌーノ・トリスタンが、それぞれに指揮をとる二隻のカラベル船が、リオ・デ・オロに向けて出発した。p126
あるパッチまではポルトガルにいた最初の3名の探検家のひとり。
リオ・デ・オロかよ!と思っていたら
王子はその少しあとに、ヌーノ・トリスタンが新しい岬を発見し、ブランコ岬と名づけたことを知って、またもや喜んだ。
いちおうリオ・デ・オロより少し先には到達したらしい。
かれらはヌーノ・トリスタンが、アフリカ人につかまった最初のポルトガル人として犠牲になったことで、毒をぬった投げ槍のこわさを知っていた。p137
合掌。
探検家 ディオゴ・ゴメス(Diogo Gomes) 3/3/3
本物の発見のプロだったディオゴ・ゴメスは、1470年ごろになって、まだ、つぎにようにしるしている。「地図をみれば、海上を駆けめぐるルートがわかることはたしかだが、地図に多くのエラーが重なると、おもな目的地にぜったいに到着することができない」。かれは自分の四分儀を使ってルートを調整することに、多大な心遣いをしめしている。要するにポルトガル人は、複雑な航法を編みださねばならなかったのである。p113-114
最初の3名のひとり。1470年くらいまで生きるとしたら相当長生きで助かるが。
古強者のディオゴ・ゴメスとかという人物は、つぎのように証言している。かればエンリケの死後、なんども探検に参加し、ポルトガルの発見史上、卓越した役割をはたしつづけた。p133
でもヌーノ・トリスタンと同じ能力値ですが。
探検家 Álvaro Frenandes 1/1/2
あるパッチまではポルトガルにいた最初の3名の探検家のひとり。
この本には出て来ん。カスだから?しかしカスでも探検家。
マラッカ王国
この海洋国家の土地は、ほとんどなにも生み出すことはなく、すべての富は海の管理に由来した。このような都市国家と海洋国家としてのあり方は容易にヴェネツィアと比較できる。マラッカ王国は、しだいに重要な役割を果たすようになった。マラッカの港は、絹織物や陶磁器がくる中国の海岸から海路で1か月の位置にあり、モルッカ諸島のスパイスのごく自然な出いり口だった。マラッカはシンガポール周辺までの海峡を掌握し、つねづね海賊行為が盛んだったこの地域の安全性を確保した。そして自国の倉庫と、大きな税を徴収した税関のほうへと船舶をいざなった。p100
船舶 バルク(Barque)
はじめてカラベル型の船が出現し、白い岬までいったのは、1441年のことだった。初期の航海は「小舟(バルク)」を使っておこなわれた。小舟というのは、ひとつのデッキと一枚の帆だけを備えた、小さなトン数の舟のことである。そしてこの名称は、どこの海でも公開できるより大型のカスティリャの小舟と、ジェノヴァの小舟のことをさしていた。p111
他の書籍にも面白い話が。
ヨーロッパにとっての香辛料の価値
唐辛子のアイコンになっているが、実際は胡椒らしい。
また彼(マルティン・ベハイム)は香辛料の産地に執着した。アジアのもっとも価値の高い産品である。現実には胡椒が香辛料交易を支配していた。その大部分はインドの南西部からやってくる。胡椒は量では市場の70パーセントを占めていた。
ただし単価が高く嵩張らない産品も珍重された。代表格はスリランカを産地とするシナモン(肉桂)と、バンダ諸島およびモルッカ諸島で専業の農家が栽培するクローブ(丁子)とメース(にくずく)とナツメグである。
香辛料がどこから算出されているのかわからない
なんて適当な理論でしょうか。
ヨーロッパ人は香辛料の産地をめぐって喧々諤々論議した。「ナイル川の漁師は、地上の楽園の木から落ちるジンジャーとアイオウとシナモンの実を袋に入れ、これをエデンから川下に流した。」
金についてもどこから算出されているのかわからない
こちらはセネガンビアの金についての風説。
奇妙な説も出回った。「金はニンジンのように地から生える」、「アリがこれを塊の形に育てる」、「洞窟にすむ裸の人間がこれを掘り出す」など。
ゲームでもそうなっているが、実際はマリ領のブーレあたり。
おそらく金はブーレ地域の鉱山から実際にもたらされた。ガンビア川とセネガル川の上流近辺、それに多分ボルタ川の中流あたりから……
この辺では金よりも塩のほうが大事。
塩と金の交換。オンス対オンスの文字通りの等量交換。人は金なしでも生きていえるが、塩なしでは生きていけない。(中略)一方、地中海世界は、塩分の適切な補給には事欠かないが、貴重な金属類は大いに欲している。