※英語版に基づきます。日本語版の訳語は知りませんので、置き換えてください。

〔関連書籍〕喜望岬が拓いた世界史 ポルトガルから始まったアジア戦略 1498-1620

一冊丸ごと、アジアにおけるポルトガルグジャラート、マラッカ、中国、ムガル等々の交易についての論文。

 

第一章 ヴァスコ・ダ・ガマ とアジアへの航路

1499年8月下旬、ヴァスコ・ダ・ガマが首尾よくインドへの航路を発見して帰国した直後、国王マヌエル一世は 、いささか先走った行為であったが、「(ギニアの支配者、)エチオピア、アラビア、ペルシャならびにインドの征服、航海、通商の王」という称号と尊称をみずから帯びることにした。ただしこの時点では、喜望岬のどちら側であれ1000海里以内には、ポルトガルの船はたったの一隻もいなかった。

マヌエルったらもう...どれ一つとして征服していないし。

それが国王マヌエルの治世が終わりに近づく頃になると、ポルトガル人はすでに《エスタード・ダ・インディア》を創設していた。 (中略 ) この支配圏は、1640年9月には、東南アフリカのソファラから南シナ海に面したマカオまで広がる26の沿岸要塞から成っていた。

沿岸要塞26個は作りすぎだろう。もっともゲームバランス変更で要塞防御が容易になったので、イベントで獲得できるゴアなどに僻地に要塞を造るのは効果的になったから、やるべきではあるが。

ポルトガルの大西洋への勢力拡大は、対北アフリカ政策が最初から暴力によって推し進められ、封建的な十字軍遠征という熱狂によって支えられていたのと対照的に、明確に商業上の論理に従っており、何十年ものあいだ西アフリカ沿岸部とあちこちの島嶼に狙いを定め、金と奴隷と大量交易品の探索発見を 動機としていた。

 北アフリカは確かに最初から暴力ですな。自分または同盟国が教皇庁支配者になったときにモロッコチュニスなどを攻めると、実際に十字軍発動されるし。

西アフリカも戦には容易に勝てるが、制度 institution や安定度stability 向上にかかるコスト考えると、領土を自ら持つメリットはあまりない。

1472年にはポルトガル人の到達した最南端はまだ今日のナイジェリアの海岸だった。

初期のゴメスで1440年代にはこの辺までは行ける。

1488年にはバルメトロウ・ ディアスが喜望岬をまわり、アフリカ東海岸に沿って船を進めている。(中略)ほぼ同じ頃、(中略)カリカットに到達 

最初に探検政策 exploration idea をとれば余裕だが、最初に拡張政策 expansion idea をとった場合には、2番目の政策までは遠いので、結構簡単ではない。

 第二章 15世紀のインドと東南アジア

15世紀には、ラージャスターンを除いた北インド全体がイスラムの征服者たちに蹂躙され、その後裔たちによってデリー、ベンガルグジャラートといった強力な王国が創建され統治された。

インドの生産力が集中する北インドの話。

西海岸では(中略)大きな地域国家の形成に十分な土地はなかった。マラバール、カナラ、コンカンといった海岸地域は、15世紀には 小さいが独立したいくつものヒンドゥー王国に分かれていて、その中ではカリカットの国王が最も強大であった。(中略)外国との接触が もっとも盛んで、そのために後年ポルトガルの勢力拡大の目標となる運命にあった。(中略)胡椒と生姜のもっとも重要な生産地帯であり、輸出地帯であった。(中略)北インドグジャラートや南東のコロマンデル(中略)と並んで、アジアの遠隔地交易の中心的存在となっていた。

ゴアなどのある、西海岸の話。

大きな経済的、政治的成功にもかかわらず、ジャワ島北部のどれ一つとしてインドネシア 諸島を代表するような積み替え港にはならず、その地位を得たのは(中略)マラッカであった。(中略)1511年にポルトガルによって占領

イベントで出てくるマラッカ。重要だったらしいが、1500年代にここまで商人の連鎖が到達できないのでそういう実感はない。

第三章 ポルトガル人来航以前におけるアジアの域内交易

もしもポルトガル人がまず第一に商人であったなら、でき上がっていた交易のネットワークに身をゆだねたことだろう。しかしながら彼らは国王に仕えており、香辛料探索をイスラムとの戦いと結びつけていたために、すぐさま武力による介入の先駆者という実態を明らかにしたのであった。 

すみませんアジアの平和を乱しました。

重要な交易の絆は、マラッカの東では中国やインドネシアの輸出港と、そしてまた日本とも結ばれていた。そしてマラッカの西側では、ベンガルやコロマンデル海岸やマラバール海岸と、そしてとりわけグジャラートと結ばれていた。グジャラートの港で一番重要なのはカンベイであったが、そこからに劣らずマラバール海岸からも頻繁に船が出て、アデン(紅海)ならびにホルムズ(ペルシャ湾)と、さらにはまた東アフリカとも、盛んに行き来していた。少なからぬ船が紅海とマラッカのあいだをじかに結んでいた。

EU4のインド近辺の交易網は、だいたいそのようになっております。

胡椒はすでに15世紀には(中略)もっとも重要な商品となっていた。もっとも有名な産地は西インドの北はカノナールから南はコモリン岬までの狭い帯状の海岸地域で、マラバール海岸のカリカットがそのもっとも重要な輸出港であり、もう一つの産地はスマトラ島北西部であった。(中略)生姜の産地はマラバール海岸、ベンガル、東アフリカであった。シナモン〔肉桂〕は大半がセイロンで栽培されていた。丁子〔クローヴ〕、ナツメグの花と実は香料諸島(アンボン島、モルッカ諸島、バンダ諸島)の産物だった。

香辛料のアイコンはすべて唐辛子っぽいですが、実際はいろいろです。

第四章 ポルトガル制海権と交易独占

アジアでは、数百年に及ぶ航海の伝統や高度に発達した造船技術があったにもかかわらず(中略)外洋を航海できる武装した船舶は存在しなかった。(中略)継続的に改良されたポルトガルのルントシップ、その中でも特にカラヴェラ船とカラック船 - 例外なしに防御用および攻撃用の軽砲を装備 - に対して、アジアのさまざまな船は(中略)戦闘力となると著しく劣っていた。

確かに初期のカラックを持っていくだけで負ける気がしない。

制海権の獲得とたいそう好都合だった有力な敵同士の競り合いは、ポルトガルの指揮官、総督、副王にとって、アジアの大国の周縁部で植民地システムを構築するのを容易にした。 

本土から遠いし、同盟国とはいわないまでも、関係のいい国は欲しい。

ポルトガル人は南アジアと東アジアの大国に対して「ごく控えめな姿勢」を示したことで、彼らにとって自由な空間が開かれた。(中略)ポルトガル人は大国と戦ったことは なく 

 陸戦は人的資源を食いすぎる。

1505年までの第一段階では、兵と武器を満載した大規模な艦隊が毎年派遣され、カブラルが東アフリカとマラバール海岸に築いた拠点の維持に当たった。 

 これくらいまめにしないとだめか...到着させるだけで半年はかかるので、3年に一ぺんくらいしか送っていなかったが。

1509年には、副王アルメイダは、ディヴ沖の海戦で決定的な勝利を手にした。このときは数で勝るマムルークとインド沿岸部の領主たちの船団を壊滅させたのである。 

マムルーク艦隊を地中海以外で見たことがないんだけど...

ポルトガル領インドは1509年から15年までのあいだに、総督アフォンソ・デ・アルブケルケのもとで、堅固で効率のよい植民地システムへと変貌していく。(中略)エスタード・ダ・インディアの中心地とすべき都市を探していたアルブケルケは、すでに1510年には(中略)ゴアを奪い取った。(中略)一年後にアルブケルケはマラッカの占領に成功し、同地を支配していたスルタンは後背地へと逃亡した。 

 ゴア奪取から1年以内にマラッカ占領...どうすればできるんだ。
そうか拡張アイデアの最後にもらえるCBか!

航路発見のためにインド洋へ遠征艦隊を送り込み、海岸に面したきわめて重要な地点を確保した第一の目的は(中略)喜望岬ルートを強引に推し進めることで、レヴァント経由の隊商による交易の息の根を止め、グジャラートペルシャ、アラビアやヴェネツィアの商人が中間取引によって得ていた利益を、リスボンがそっくり独占することにあった。

つまり交易力移転で仕向け先を喜望岬に変えた、そういうことだな?

ポルトガル軍艦の哨戒活動による紅海への船の侵入阻止は、最初のうちかなり成功率が高く、多くの商船がペルシャ湾へと進路変更したために、1520年代以降はホルムズが膨張する交易の統制と課税のための理想的な地点となり、まもなくエスタード・ダ・インディアの資金調達に不可欠となった。

つまりホルムズで交易力収集をしろ、そういうことだな?
実際、喜望岬経由で全部移転するのは商品が足らなくてできないから、インドあたりで収集する必要はある。

新世紀に入った直後には、喜望岬ルートならびにアジアの海域は「マレ・クラウストルム」、すなわち「閉鎖された海」である、ポルトガル以外はそこを利用してはならない、と宣言していたのである。

DLCの「マレ・ノストラム」(我々の海)もここから来ているのだろうか。

第六章 アジアの交易におけるポルトガル

商品を運搬するアジア人の船を統制するためにポルトガル人が使った主要な道具は《カルタス》すなわち航行許可証の交付で(中略)、アジアの商船の過半数ポルトガルの要塞に、とはつまり統制本部と税関の所在地へと、船を向けたのだった。 

 ゴア、ディヴ、ホルムズ、マラッカにあったらしい。