※英語版に基づきます。日本語版の訳語は知りませんので、置き換えてください。

〔関連書籍〕 ザビエルの海―ポルトガル「海の帝国」と日本

日本だけでなくインド、マラッカ、モルッカ諸島、最後は明にまで渡航したザビエルさん。

ザビエルの海―ポルトガル「海の帝国」と日本

ザビエルの海―ポルトガル「海の帝国」と日本

 

その旅程のほかに、ジョアン2世、マヌエル1世、ジョアン3世あたりの海外政策の簡単な説明もある。

「完璧王」ジョアン2世

CKばりに、妃の兄および12人の有力諸侯を殺害したそうな。

マヌエル1世の前王「完璧王」ジョアン2世(在位1481~1495)は、アフリカの最南端の喜望峰を発見したバルトロメウ・ディアスを西アフリカの探検に派遣し、インドとの交易の基礎を築いた王だった。王は、妃レオノールの兄ヴィゼウ公ディオーゴをパルメーラの地で刺殺するなど12人の有力諸侯を殺害し、剥き出しの権力闘争に勝利して強大な王権を築いた。

馬は livestock、織物、絨毯は cloth(産地はないけど)、真鍮製品、腕輪は copper(産地はないけど) と脳内変換。 

ジョアン2世は探検事業を積極的に進め、アフリカ西岸から金、奴隷、象牙などを輸入し、馬、織物、絨毯、真鍮製品、腕輪などを輸出する貿易体制を精力的に整えていった。

「幸運王」マヌエル1世

妃レオノーラが庶子への王位継承に反対したため、殺害した妃の兄の弟に継承された。

そうそう、正統性 weak はひどい目に合うからな。不穏的に。

ポルトガルが本格的に「海の帝国」の形成に着手したのは、アジアとの交易ネットワークの建設に強い意志を示した「幸運王」マヌエル1世(在位1495~1521)の時代である。ポルトガルの「栄光」の時代は彼の治世から始まった。

マヌエル1世は兄が処刑された際にも顔色ひとつ変えなかったという豪胆な男だったが、思いがけない「棚ぼた」で王位に就いた。(中略)起業家精神が旺盛であり、新たな探検事業を組織することにより「時代の子」となる資質を備えていた。(中略)貴族ヴァスコ・ダ・ガマ(1469~1524)に旗艦サン・ガブリエル号など(中略)3隻のカラベル船と1隻の小型食料輸送船(中略)を託し、(1)アフリカ内陸部に存在するとされていた大キリスト教国「プレスター・ジョンの国」との接触を試みること、(2)インド西岸のカリカットに至る航路を開拓すること、という2つの使命を与えた。

アルメイダ(1450~1510)

確かに近辺に金は出るが…インドに行く途中に手初めに攻略できるほどキルワは弱くない(巨大化していることが多い)。

インドに赴く途中でアルメイダは、手初めにアフリカ東岸のムスリム貿易港キルワを占領し、要塞を築いた。(中略)キルワで行われているアフリカ内陸部との金貿易は、インドでの貿易資金の調達にも役立った。

アルブケルケ(在任1509~15)

それにしてもアルブケルケのゴア、マラッカまでの進出スピードは異常だな。 

1507年になるとアルブケルケはアラビア半島の南岸各地を侵略しながらペルシャ湾口のホルムズに至り、ホルムズ港をポルトガル支配下に組み入れた。(下略)

1510年(中略)手薄なビシャプール王国の貿易港ゴアの征服に成功した。

20日間で攻城戦完了って…

1511年(中略)20日間の激しい攻防の後、東南アジアの貿易センター、マラッカはポルトガルの軍門に降り、「海の帝国」の一部に組み込まれることになる。(下略)

やはり探検は3隻らしい。

マラッカの陥落後、部下のアントニオ・デ・アブレウに3隻の艦船を与え(中略)モルッカ諸島(香料諸島)に派遣した。

 とにかく、ザビエルはあっちゃこっちゃで登場します。

tombi-aburage.hatenadiary.jp

より広範には次の書籍がおすすめ。

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航海の歴史:探検・海戦・貿易の四千年史

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